「学び・成長」イコール「辛いこと」なのか?
学ぶことや成長することについて、みなさんはどのように考えていますか?
養成所でのレッスンや、学生時代の部活動、受験勉強などを思い出してみてください。
当時、どんな思い出取り組んでいましたか?
特にスポーツや競技の分野においては、ハードな練習に耐えて耐えて、
自己の限界能力を向上させることが求められたと思います。
辛く厳しいトレーニングに励み、それを耐え抜いた人にだけ成長が訪れる・・・
そんな風に信じられています。
趣味や休憩、食事の時間を削ってまで練習に励む。
成長するためには、余計なことになんて構ってられない。
成長するためには、辛いことは避けて通れない。
ストイックさがないと、「決意が足りない」と指摘されることもしばしば。
成長のために、辛いことは必要なのでしょうか?
「学ぶこと」は「辛いこと」ではない
当然ですが、学ぶことと辛いことはイコールではありません。
なのに、なぜか一緒にされているんですよね。
あ、努力もそうですよね。
努力イコール苦難・辛いこと、みたいな。
不思議ですねぇ…
そもそも学ぶことは動詞なのでアクションを伴う行為ですよね。
一方、辛いとはアクションの結果として起こる感情です。
学ぶというアクションの先に、いつも辛いという感情が起きるでしょうか?
そんなことはないですよね。
どんな感情がわき起こるかは、練習してみないことには分かりません。
辛いと言うよりも、やりたくない・痛みを伴う・面倒くさい。
だからそれを辛いことだと考えてしまうのではないでしょうか?
皆さんも経験があると思いますが、
練習して楽しかったことってありますよね???
決意は、歪みや苦痛を正当化する
しかしながら、練習が辛いものだと考えられているせいか
あまり練習をしていないことがレッスン講師や指導側の立場の人に伝わると
時には「決意が足りない」と叱責されることもあります。
何かを成し遂げるには大切なものだとは思いますが
時にはうまく作用しないことがあります。
それどころか、良くない影響を与えることがあるのです。
よくある例が、痛みや怪我を気合いでカバーすることです。
痛みや怪我の程度にもよりますが、我慢できない痛みがあるのに発声練習をするのは全くの逆効果。
治るものも治りません。
そして痛みを伴うことを成し遂げるとき、なぜか人は快感を覚えることもあります。
「こんなに痛みがあるけど、それを耐えてまで練習したオレ」に快感を覚えるわけです。
その反対で、とても痛くても練習しなければという脅迫観念に襲われることも。
「私がこの痛みのせいで休んでいる間も、他の人は練習している。
だからどれだけ痛くても練習しなきゃ」と。
痛みに耐え抜いて練習するには、決意というモチベーションが大きく関わってきます。
ところか、揺るぎない決意の元に、痛みをおしてまで練習する必要があるのでしょうか?
より痛みが悪化するかもしれないのに・・・
いや、それまでの使い方に問題があったからこそ痛みが生じているはずです。
同じ使い方をして練習すると悪化するのは確実かもしれません。
残念ながら「決意」はさらなる悪化を招くことを助けてくれます。
どんなに辛くても、決意があれば耐えられるのです。
痛みや自分が納得できない歪みをも、決意は「いつかゴールにたどり着けるから大丈夫だよ」と背中を押してくれます。
一見、素敵なようにも見えますが、痛みを忘れさせてまでゴールに向かおうとするのは
危険なようにも思えます。
欲しいものを手に入れるために、危険な行為を自分に課しているわけですから。
「学ぶこと」イコール「楽しいこと」
本来、そうあるべきだと思うんですよね。
いまこうして声のお仕事をしている皆さんだって、
声のお仕事をするのが楽しいからずっと続けていて、
そのモチベーションが続いているからこそ、それがいつの間にか生業となったんだと思うんです。
そこには、辛く苦しい時もあったかもしれません。
けれど、その辛く苦しい中にも「楽しい」要素があったから、長く続けられているのだと思うんです。
継続してきた結果が、成長なのです。
学ぶことや成長することには、楽しさが欠かせないと思います。
学ぶことだけに限らず、辛いことや苦しいことに直面したとき
決意があるかとか精神的なことに頼って無理矢理立ち向かうのではなくて
楽しいかどうか?とか、それが好きかどうか?をよく吟味した上で
立ち向かってみてはいかがでしょうか?
ときには退却することも立派な戦略です。
一時的な撤退のあと、別ルートで進軍するわけですから、
もちろん成長に繋がりますよね。
くれぐれも決意だけを頼りに、大けがをすることがわかっていて突撃することのないように・・・