「初心忘るべからず」という言葉があります。
「初めて物事に取り組んだときの謙虚な気持ちを忘れないように」という意味…ではありません。
一般的にそのように思われているのですが、実際のところは少し違います。
この言葉は能の創始者である世阿弥の言葉で、彼は『風姿花伝』でこう綴っています。
『しかれば当流に万能一徳の一句あり。 初心忘るべからず。この句、三ヶ条の口伝あり。是非とも初心忘るべからず。時々の初心忘るべからず。老後の初心忘るべからず。この三、よくよく口伝すべし』
世阿弥が意味するところの「初心」とは、初めて物事に取り組んだときの気持ちではなく「初めて取り組んだときの芸のレベル」。
つまり、初めて取り組んだ時の芸のレベルを忘れず、芸事の向上を怠らないように。
これが世阿弥が意図したところです。
そして「初心」には、三つの「初心」があります。
まず前述の、初めて芸事をしたときの「初心」。
様々な経験を積むといろんな経験をします。歳やキャリアに応じて新たな境地に達するでしょう。その時の芸のことを「時々の初心」。
そして老後にいたっても、新たに学ぶことがあり、そのときの芸を「老後の初心」とされています。
いくつになっても、どれだけキャリアを重ねても、初心を忘れず、芸の向上に努めることができるわけですね。
芸がある程度のレベルに達すると次第に慣れがやってきます。また、賞賛されると嬉しく、評価を得たことで芸のレベルに満足してしまいます。
慣れと賞賛は、芸の完成という幻想を生みます。求められるクオリティは出せるし、誉められる。私の芸のレベルはこれだ、と思ってしまうのです。
自分の芸を完成だと思ってしまったら、その時点でキャリアは終わってしまうのではないでしょうか?
こんな時こそ、初心を思い出して、さらなる向上に臨むべし、ということですね。
さて、「初」という漢字の成り立ちに注目してみましょう。
衣偏は、衣服の襟元の象形文字です。
つくりの刀も象形文字。
衣服に太刀を入れる様ですが、裁断することが衣服を作るはじまりであることから、物事のはじまりを意味するようになりました。
まっさらのきれいな布にはさみを入れるのは緊張します。失敗したらどうしようという気持ちもあるでしょう。
このはさみを入れる瞬間、まるで本番前のようだと思いませんか?
この緊張する瞬間、全てはここから始まります。
はさみを入れた後でないと、失敗するか成功するかは分かりませんし、はさみを入れなければ始まりません。
あなたが失敗したと思っても、他の人が評価することだってあるわけです
あなたが成功だと思ったものは他の人が求めていないのかもしれません。
少し恐怖はありますが、それよりもどんな結果が待っているかわからないって、ワクワクしませんか?
そのワクワクが本番に向けてのアドレナリンを出すきっかけにもなっているのです。
「初」の成り立ちを考えると、本番前の緊張やワクワク、これも「初心」といえるのような気がしませんか?