「力入りすぎ!もっと楽にして!」
そんなアドバイスやダメ出しを受けたこと、ありませんか?
「楽にして」を意識すると、たいてい違ったダメ出しを受けます。
「だらっとしてる」とか「メリハリがない」とか「緊張感が足りない」とか。
メリハリを出そうとしたら、また「力入りすぎ!」
そしてそのまま無限ループに…
そんな経験ありませんか?
当然私はあります!
(威張っているわけではありません 笑)
「楽」という言葉のイメージが抽象すぎるのです。
なのによく指摘されるし、すぐに反応しようとして「楽にしよう」と意識するわけですが、何を意識していますか?
そもそも「楽にする」とはどういうことなのでしょう。
試しに、パフォーマンスのことは考えず楽になってみましょうか。
全身の力を抜きましょう。
まずは首から。
頭は約五キログラムあります。
こんな重たいものが首の上に乗っているのです。重たいものをおろして首を楽にしてあげましょう。頭は前に下ろします。
上半身はどうでしょうか?
足は?
とにかく力を抜きましょう。
だらーんと。するとどうでしょう?
立っていられなくなります。
これが楽になった状態です。
冒頭の例に戻ります。
あなたが受けたアドバイスやダメ出しはこの状態を指しているのでしょうか?
もちろんそうではありませんよね。
では「楽にする」というのはどういう状態でしょう?
少なくともあなたと講師の間に「楽にした状態」という決められた共通の認識があるわけでもないのに、それが存在しているかのように「楽にする」という言葉がよく使われています。
私はここにこの言葉の罠が潜んでいると思います。
「楽」という言葉が持つイメージのせいで的確なアドバイスのように聞こえるのですが、そのイメージがアドバイスを受けた側を惑わせます。
ですから、私は「楽にする」を翻訳することにしています。
本当に楽になったら、人間はだらーっとして立つことさえできません。
その状態ではパフォーマンスはできません。
(時には、この状態でのパフォーマンスが
求められることがあるかもしれませんが)
「立つ」という状態でも、約五キログラムの頭を支えるために、全身の骨や筋肉が働いています。
首、胸、腰、足など全ての部位がバランスを取り合って、立っていられるのです。
ですが、私たちは全身の骨や筋肉が使われていることを感じません。それは身体は最も効率のよい使い方を知っているから。
なので、私は「楽にする」という言葉を「適度な張りを持たせる」とか「適度な力を使う」に翻訳することにしています。
そのように自分にディレクションしてあげると、身体は、したいことをするための必要最小限の力を発揮してくれるのです。
今回だけのケース以外にも、ディレクションやダメ出しを自分が理解しやすいように翻訳してみることをお勧めします。
演出に関するディレクションには特に有効ですよ。
また別の機会に取り上げてみたいと思います。