みなさんにとって理想のナレーター像・声優像はありますか?

かつて、私は理想のナレーター像になるための練習をしていたことがありました。

まだ20代前半の頃の私にとって理想のナレーター像は・・・

・噛まない
・上手
・アクセントに忠実
・読みがきれい

と、こんなナレーターでした。

その理想の姿に近づくために、
早口言葉で滑舌の練習をしたり、新聞をスラスラ読めるように音読したり、
果ては読書のようにアクセント辞典を読みはじめたり…
ということを繰り返していました。

まさに「向上心から生まれるモチベーション」をエネルギー源にして、理想のナレーター像になるために、自分自身でディレクションを送り続けていたのです。

当時所属していた事務所に認められたい、評価されたいという思いもありました。

事務所に認められて、仕事をして、ナレーション一本で生きていくんだ。
そう思っていました。

しかしながら、いつからから、理想のナレーターになるための練習が辛くなりはじめました。

噛まないことやきれいに読むことの意味が分からなくなってきたのです。

そもそも噛まずに読むことに意味を見いだせなくなったのです。

私にとって、理想のナレーターになるためのディレクションはパワーをくれるけど、困難で辛くなることだったのです。

理想の通りにあるため、ということは
こうあるべきだ・こんなはずではないというディレクションを送り続けていることです。
つまり自分自身の行動を否定することに他ならないのです。

否定は何も生み出しません。
否定ばかりしていては停滞してしまいます。

前に進むためには、何かを手に入れたい、という「望み」がパワーとなります。

一方、こうあるべきだ、という考え方は枠をつくってそこに当てはめようとする「強制」のパワーが働きます。

最初の頃は、枠にフィットしていく感覚が心地よく、枠に当てはめようという「望み」がサポートしてくれるので辛くなることなんてありません。

ですが、だんだんと枠にはまっていく、または完全にはまってしまうと
「強制」のパワーが働くようになるのです。

枠から出ないように、枠から出てはいけない、というパワーです。
守りに入るわけです。

そして、枠から出ることなく、ずっとそのままでいることに飽き、
いつかはそのままでいることに辛くなってきます。

でも、外側に出ていくなんて、理想とかけ離れる危険なことはしないという想いとの葛藤で
どんどん辛くなるわけです。

ですから、理想のナレーター像は、具体的な要素を基準にした枠ではなく
もっと抽象的なものでいいのではないでしょうか?

例えば「楽しくラクに読むことができて、聞き手も楽しくラクに聞く事ができるナレーション」とか(笑)

人を楽しませるのに、自分が楽しんでいないってなんだか変な気がしませんか?

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